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映画「小さき勇者たち~ガメラ~」

おとぎ話としての徹底ぶりは好み

上映前の予告編が、夏休みの子供向け映画ではなく、大塚愛とジャニーズ主役の映画でした。子供&ファミリーや、ジャンル映画愛好家に向けではなく、一般若者客向け?

一般向けだとすれば、平成3部作同様、「ローレライ」的な、ガンダム的設定リアリティ付与するのかな、突ッ込ミどころ/減点ポイントが見えなくなりますし…と思いきや、「リアリティ」路線には、完全に背を向け、怪獣の出自や「ガメラは子供の味方」である理由の客観的描写はゼロです。

お話は、主人公がトトと名付けて育てた亀がガメラだったという、「のび太の恐竜」型子供と動物話。主人公にとってのトトと、客観的存在としてのガメラは別の概念として、描いていて、怪獣「ガメラ」のほうは、結局、子供映画(「子供向け」の映画ということではなくて「主人公が子供」の映画)の背景に終始していますので、リアリティの無さが映画の欠点にはなっていません。

映画のクライマックスは、怪獣戦ではなく、怪獣戦の背後で行われる、子供たちによる、成長アイテムバケツリレーと人間の盾です。ですが、子供たちがその行動に至った理由について、説明台詞もなければ、聖なる光とかいった(観客を納得させる)超自然的な説明描写もありません。説明を拒否した、善なる物」としか言いえない何かになっています。命令を受けた自衛隊(≒大人)が子供の声の前に立ち止まってしまう、という、善き物に周りが納得する展開ですし、リアリティ云々は置いておいて、一種のおとぎ話として観るべき作品なのでしょう。

冒頭の、先代ガメラ対ギャオス戦では、リアル風描写をしていますから、クライマックスでもリアル描写が出来なかったということはないと思うのです。が、あえてドングリまなこ、ぬいぐるみっぽ(く、生物感ヌメヌメ、テカテカの無)い肌、という子供の思いが届きそうな、可愛い姿のまま最終形態。父親(≒大人)の「もうトトじゃなくガメラ」という台詞から、説得力を奪っています。

子供>大人な展開は、他にも、子供を助けるシーンでの父親による「助けてくれる存在であるガメラが戦ってくれている間に逃げるべき」「ここにいて、おまえが死んでガメラが喜ぶのか」といった、ある程度説得力のある主張が、単に主人公が必死、ということだけで否定されてしまう徹底ぶりです。

そんな、子供>大人な展開の映画ですと、大人が、「馬鹿な大人」に見えてしまう、という欠点があります。が、本作での大人が「馬鹿な大人」に堕していないのは、北野映画とか、わたしの観る邦画への出演が多い、津田寛治演じる父親(と隣人役の寺島進)に、子供の対立概念ではない大人の説得力があるからでしょうか。(2006.05.12分「恋するハニカミ」にて、15歳年下とデートする津田が本作中での定食屋のシーンを思わせるチャーハン調理を披露していました。冒頭に本作の紹介が入っていて、映画宣伝目的もあるのでしょうが…ある種、羞恥プレイのような番組に出るとは、それこそ「大人の余裕」か。)

ラスト、主人公の台詞が、「さよならガメラ」で、「さよなら、トト」でないのは、ガメラとは上映時間と共にさよならであっても、トトとの説明不要な繋がりは永遠だから、ということで、最後まで、説明のない「おとぎ話」ぶりが、徹底しています。

序盤は、うっとうしい行動をしていた子供が、最後には物わかりが良くなる、といった、成長展開も無く、最初から最後まで、トトとの交流が大事、一本槍で突き進み、逆に世界こそ変わるべき、という、フォーガットン的信念最強映画は好みなので、気に入った映画です。

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